Riocato.com始めました!

僕のブログに足を運んでくださってありがとうございます。
Riocatoというアーティスト名で展開している僕の音楽活動を
まとめてチェックできる新しいサイト「Riocato.com」を立ち上げ、
こちらのブログの記事をそちらに引越ししました。
今後は「Riocato.com」に投稿していきますので、
よろしかったらそちらをチェックしてみてください。

      2016年4月23日 のんぎぃー
       ーー>「Riocato.com」はこちらです。

スポンサーリンク
2010.09.17

奥様はキルター


僕は自分の部屋大好き人間でして、
時間があればギターを弾いたり作曲をしたりしていたい
スーパーインドア派です。

実は、僕の妻も趣味人なのです。


彼女の趣味はキルト

一昨年に始めた趣味なんですけど、
それはもう凄いハマリようでして、
僕のギターと良い勝負なんじゃないかなって思います。

仕事から帰って来ると、
部屋で布を裁断したり縫い合わせたりと
自分の趣味の世界で楽しそうにしています。

キルトの雑誌を買っては
「こういうの良いなぁ〜♪」
「この柄カワイイ〜、今度作ってみようかなぁ〜♪」
って言っていたり、

「新しいデザインを思いついた♪」
と言って、色鉛筆を使ってスケッチして
見せてくれたりと、
いつも賑やかにしています。

彼女の部屋にはキルト道具や刺繍糸、
アイロン台に中詰め用の綿、
何種類もの布地が常にあって
ちょっとした作業部屋のようです。

 こんな布とか、


 こういう綿とか


 こういう定規とか


 こんなカッターとか


 こんなカッティングボードとか....


こういう道具が本当に部屋にあるんですよ。


いずれ、彼女の部屋が工房になるのは間違いなさそうです。

きっと僕の部屋がスタジオになるよりも早いですね。(^^



時々、遠くの街に行って布を買ってきたり、
近所の手芸店に行って道具を買ったりしてるんですけど、
まるで女の子が好きな人形を見つけた時みたいに
「あぁ〜!この布カワイイ〜♪」
なんてはしゃいでいます。


こんなに夢中になれる趣味があるなんて良いもんですよね。


自分が楽器店や中古CDショップに行った時も
こんな感じなんだろうなぁって
彼女を見ていて思います。

似た者夫婦なんですねぇ。(^^




ちなみに、こちらの手芸店で売っているキルト道具は
ほとんどが日本製なんですよ。

やっぱり使う人達には道具の質が分かるんでしょうね。
こういうのって、ちょっと誇らしいですよね。


彼女の研究心は留まるところを知らないようで、
最近は、キャスキッドソンの本の秋号を買うんだぁ〜とか、



Cath Kidston “FLY TO THE UK!” 『キャス・キッドソンへようこそ』 2010 autumn&winter (e-MOOK)


完成したキルトをビニールでコーティングしたいなぁ〜とか、

31m4ZFxhFtL._SL160_.jpg

Thermoweb Heat'n Bond Iron-On Vinyl -17"X5 Yards Gloss



色々と次のアイテムを狙っているようです。



キルトを始めた時は、色々と飽きっぽい彼女の事ですから
いつまで続くかなぁと思っていましたけど、
気がつけばもう1年半も続いたんですよねぇ。

これは、このままずっと行きそうな感じです。



僕もギター弾いていて思うんですけど、
一生ものの趣味を持てるのって本当に幸せな事ですよね。

そんな趣味を見つけた彼女は、毎日とても楽しそうです。


僕の提案でブログも始めたので、
そのうちにキルトをしているブロガーさん達と知り合って、
キルト友達ができていくんじゃないかなって思います。


お互いに趣味に時間をたっぷりとかけたいモノ同士なので、
食事が終わるとそれぞれの世界で遊んでいる2人なので、
「うちらって仮面夫婦?」
なんて笑いあってますけど、
こんな夫婦がいても良いんじゃないかなぁ〜って
今日ものんきに思っている僕達なのでした。


青い空にヤシの木の開放的なカリフォルニアで
インドアな趣味って、ちょっと勿体無いかもしれませんけど、
こういうのも良いものですよね。


人気ブログランキングへ
よろしかったら応援クリックをおねがいします。


ブログパーツ 

アクセスランキング
2010.08.25

LAの日系のコミュニティで思う事


昨日は、前職場の人とお昼を御一緒してきました。

その人は営業で僕は制作だったので部署違いなんですけど
小さな会社でしたし、同時期に会社から離れたのもあって
たまには一緒にランチでもどうかって声をかけてきてくれたんです。

昨日は仕事の途中だったそうなんですけど
スケジュールを調整してくれたので再会できました。

ちゃっかりお昼もごちそうになっちゃいました♪

ただ今、失業保険で生活してる身なので....。(^^;

きちんと稼げるようになったら、
今度は僕が払わせてもらおうと思います。


彼女は日系のコミュニティの発展に頑張っている人でして
色んなボランティアに参加したり、
バザーを企画して開いたりと
常に人に接してアクティブに動き回ってる
エネルギッシュな人です。

僕とは正反対なタイプですね。


さて、そんな彼女から聞いた話では
日系のコミュニティはどんどん衰退していっているそうです。

話を聴いていて一番心苦しく思ったのが
日系人の人達と移住組の日本人の間の溝でした。

これはとても深くて、溝を埋めるのも
橋を架けるのも不可能にしか思えない状況だそうです。



僕達、新渡米人は彼らの苦労を知りません。
日本に住んでいる日本人はもっと知りません。
気にかける事すら無いでしょう。

原爆被爆、従軍慰安婦問題
靖国神社参拝は社会的に取り上げられても
日系人に対する事は取り上げられません。

彼らも同じ日本人であり、
海を渡った異国の地で暮らす同胞だという事も
もう話題にすらなりません。

戦時中の彼らの苦悩は、
終戦が語られる8月になっても
誰にも語られないままです。



僕達はもっと彼らの事を知るべきだと思うんです。

アメリカ国籍を取得しても
彼らは日本の心を忘れずに
様々な事に耐えてきたという事を
もっと語られるべきだと思うんです。



日系人の人達の渡米時の苦労、
何も無いところから始めた苦悩の日々、
日本の政府が彼らに対してとった冷徹な対応...。


彼らの中には国を追い出されるようにして
移住を決めた人達もいます。

人によっては明日を生きていく為に、
人によっては生活に苦しむ家族に送るお金を作るため、
人によっては農村での口減らしのため...。


渡米後、彼らは本当に苦悩の日々を送ってきました。


貧しい彼らは最低賃金で働くしかありませんでした。

大農場での小作農として肉体労働に従事する人が多かったようです。
一定の土地を開墾する権利が与えられたとしても、
それは現地の人さえ開墾しようとしないような土地だったようです。

でも、彼らは忍耐力と工夫で明日を作り上げていきました。


LAの南側に日系人、日本人が多く住む街で
Gardena(ガーデナ)という街があります。

これはgardener(庭師)という言葉から来ています。

渡米した日本人達は庭仕事につく人も多かったそうです。

日本庭園を知っている彼らは、彼らの美意識と
丁寧な仕事ぶり、誠実な人柄で
だんだんとアメリカ人の信頼を得るようになっていきました。

他の人種では、家のものを盗んだりする事が
日常的だったようですが、
日本人はそういう事をしないので
とても驚かれたそうです。


日本人がアメリカで信頼されているのは
彼らの努力があったからこそだという事を
僕達は忘れてはいけないと思います。


日本人が信頼できるという噂はだんだん広まり
日本人がつける仕事も増えていきました。


渡米した日本人達は努力と忍耐の日々を重ね、
ある程度の評価をされるようになってきました。

彼らはアメリカ市民として認められるように
勉強と仕事に懸命に打ち込みました。

彼らは過酷な労働で貯めたお金を自分達の贅沢には使わずに
子供達への教育に使いました。

自分達よりもより良い明日を生きてもらいたい、
そんな親心だったのでしょう。

皮肉な事に、お金を節約する彼らは
地元にお金を落とさないと疎まれる事もありました。

そして、彼らは渡米日本人の街を作りました。
彼らの心のよりどころの街です。

それがリトル東京です。

リトル東京は大きく発展しました。

でも、ある日を境に街は大きく変わります。

1942年に大統領令でゴーストタウン化してしまうのです。
西海岸地区の日系人は全て収容所に強制収容されたからです。

その後、リトル東京にはアフロ系の人達が住むようになり
黒人街となりました。

(余談ですが、この頃はアフロ系のジャズクラブが沢山開店して
 まだ無名だったチャーリーパーカーも演奏していたそうです。)

戦時中の祖国との葛藤、
アメリカ政府による全財産の剥奪、
2つの国の間でおこる家族の離別
強制収容の日々、
日本人に対する差別...。


彼らの子供達は日本人として日本に渡る人もいれば
アメリカ人として軍隊に志願する人もいました。

そんな彼らを集めて結成された部隊が
日系人部隊です。

日系人部隊はアメリカの為ではなく、
自分達を育ててくれた家族の為に戦いました。

日本人の誇りを胸に、
戦場で命と引き換えに
アメリカ政府に対して国への忠誠を示すことで、
家族に対する不遇と戦いました。


彼らは日本と戦っていたのではありません。
彼らを冷たくあしらうアメリカの為に戦っていたのではありません。

彼らもまた愛する家族の為に戦っていたのです。



日系人部隊は戦場でも最も過酷な前線に駆り出されました。
つまりそれは、ほぼ確実な死を意味しています。

でも、彼らは退きませんでした。
退けば家族への非難は強くなる事を知っていたからです。

彼らは、家族をアメリカ市民だと
アメリカに認めさせる為に
弾丸の嵐の中へ駈けて行きました。

多くの若い命が失われました。
たった1日で部隊のほとんどの人間が
補充人員と入れ替わった事もあるそうです。

それだけ過酷な、生きては帰れない任務だと知りながら
彼らは家族の幸せを、人権の復帰を願って
戦場に散っていったのです。




強制収容所では、収容された人達の忍耐力と
少しでも生活をよくする知恵と工夫で
お互いに寄り添いあいながら
コミュニティとしての機能が生まれ始めました。

お互いに励ましあいながら
いつか苦悩の日が終わる時を待ち続けていました。

そんな彼らの元に、愛しい息子が帰ってくる事はありませんでした。
ほとんどの家族の元には待っている息子の代わりに
死亡通知が届くだけでした...。



強制収容から開放された後、
彼らの多くは変わり果てたリトル東京に戻ってきました。

財産を失い、人によっては家族を失った彼らは
街の復興に力を注ぎました。

JAPと呼ばれ蔑まれる日々、
経済的自立とアメリカへの貢献。

それらを日系人達はお互いを支えあい、
励ましあいながら乗り越えてきました。

子供に不当な差別を受けさせない為に
日本語を教えずに英語だけで暮らす家庭や
日本文化を継承しない家庭もあったそうです。


彼らの努力は時間とともに実を結び、
アメリカ社会の中で再び信頼を得ていきました。

そして、誠実で働き者、礼儀正しく親切という
日本人が本来持っているものを高く評価され
日本人に対するイメージが変わっていきました。

多くの日系企業がアメリカに進出しましたが、
彼らが信頼の元にビジネスを始められる土台には
多くの日系人の努力があった事を
どれほどの人が知っているのでしょうか?

どれだけの人が、日本人への差別に対して
多くの犠牲を払いながら戦ってきた人達に
感謝の気持ちを持っているのでしょうか?


彼らは冷遇され続けてきました。

劣悪な環境の中を耐え続けてきました。

JAPと罵られて悔しい想いをする日々をぐっとこらえてきました。



日本人は、同じアジア系でも中国系韓国系の人達とは
あきらかに違う好印象を持たれています。


隣の国の彼らはアメリカに彼らのルールを持ち込み
アメリカの中に彼らの国を作っていきます。

ですからコミュニティーの結びつきはとても強力です。
韓国の人はお金を本国から持ってきているので
日系人とは比べようも無いほどの蓄えがあります。

ですが、彼らは積極的にアメリカに溶け込むよりも
自分達のルールで暮らていく傾向が強いので
人種間のトラブルも生みやすく、
アメリカ側としても困っているようです。

中国人は密入国をしたり、
ほうっておくと家族を頼って入国したりして
どんどん人口が増えていくので
中国人の渡米ビザは高額で取得が難しくなっています。

韓国人にはアメリカは朝鮮戦争での負い目があるので
経済的優遇処置をとっています。

そして彼らは本国で作ったお金を持って渡米し、
建物を買い取ったりしてビジネスを始める事が多いそうです。



日系人は何も持っていませんでした。
そして、やっとの思いで築き上げた家も財産も
国に取り上げられました。

子供達の未来の為に言葉や文化を継承しなかった家庭が沢山あるので
コミュニティーの結びつきも中国系韓国系程には強くありません。

英語しか話せない2世3世も沢山いるそうです。
実際に僕の友人の彼女は日系3世ですが
日本語は話せませんし、人柄も日本人っぽくありません。



日系人は1家庭1家庭が誠実である事で
アメリカからの評価を変えていきました。

そして彼らの中の有志の人達は、愛する日本を忘れないように
リトル東京の復興に心血を注いできました。

多くの日本からの企業が、アメリカ進出の足がかりとして
リトル東京進出をし始めたとき、彼らは喜んで協力しました。

自分達の苦労が、彼らの糧になるのならばと
自分達は見捨てられたけれども、
故郷である祖国から来る同胞を
快く受け入れ援助しました。


でも、日本から来る企業はそれに対して
感謝の念も尊敬の念も持っていない事がほとんどだったそうです。

彼らはお金の事しか考えていませんでした。



日系人と呼ばれるようになった渡米日本人達は
日本から来る日本人達から見下されていたのです。

そんな事を知らない日系人達は、彼らに協力するだけで
彼らが得るものは日本人からの冷たい扱いと
経済的エリート意識から来る新しい差別でした。

日本企業は彼らに協力してもらったり
彼らの努力の恩恵を受けておきながら、
それを当たり前のように思って
コミュニティーに還元する事はありませんでした。

彼らはまた多くのお金を失い、
今度は同じ日本人から裏切られました。


多くの日系企業がアメリカに進出できた影には
彼らの長い長い苦闘の日々があるのです。


でも、日本では戦後の近代史はあまり深く取り扱われません。

アメリカに進出した日本人達は
日系人の苦労を知らないのです。

日本という国が、同じ日本人である彼らの事を
日本人に教えていないのです。

日系人達が色々な事情で日本を後にした時、
日本は彼らを見捨てました。

戦時中は彼らを敵と見なしました。

戦後は彼らの存在を歴史の闇に葬りました。

今では彼らの事を誰が知っているのでしょうか?

彼らの事を、誰が声を上げて教えてくれるのでしょうか?


現在、LAの日系人は日本人に対して心を閉ざしてしまっています。

今の世代の子供達はアニメやゲームなどのサブカルチャーの影響で
自発的に日本語を勉強したり、
将来は日本で働きたいと考える子も多いのですが、
高齢の日系人はもう日本人の声に耳を傾けてはくれません。


それが、LAの日系コミュニティが発展できない大きな原因です。


新しく渡米する日本人が日系コミュニティに働きかけても、
彼らはすでに大きすぎる傷を負っているので
話を聞いてくれる人もほとんどいません。

これではいけないと新渡米日本人達がイベントを立ててみたり
コミュニティの為に動いたりしても
彼らはもう壁の向こうでしか話を聞いてくれません。


もしかしたら僕達は話しかけるよりも
彼らの話に耳を傾けるべきなのではないでしょうか?

日系人の歴史を知るべきなのではないでしょうか?

右も左も知らないこの国で、リトル東京という街がある事は
本当に心強いものです。

彼らが作り、奪われ、取り戻した街です。

彼らの心のよりどころの街です。

その街で日系企業は彼らから
もらえるものはもらっておいて、
あとの事は素知らぬ顔でした。


資金が乏しくなった日系企業や商店は
どんどんリトル東京から撤退していっています。

一般的な日系人達は店を買うお金もありません。

日本は経済が良くないので進出する企業もありません。

空いたスペースは市や韓国系の人達に買い取られていきます。

リトル東京は日に日に違う街になっていきます。


そんな事は日系人の人達も、渡米してきた日本人達も
誰1人望んでいないでしょう。

でも、僕達は今、手を取り合う事すらできないままです。


ただ、街が削り取られていくのを力なく見ているだけです。


先人達が築き上げた街が変わっていくのを見ているだけです。


冒頭であげた、お昼をおごってくれた彼女は
それを何とかしようと日系人と日本人の橋渡しになろうと
奔走してきました。

その彼女が昨日、僕に言いました。

「もう無理だよ。」

....って。



僕は、彼女がそういった事に深いショックを受けました。

彼女は日系人コミュニティで顔が広くて、
渡米日本人にしては本当に珍しく
彼らから心を許してもらってる存在です。

その彼女がもう無理だと言ったんです。


笑いながら言ってましたけど....
その心中はとてもやりきれないものだと思います。


僕に何かできないだろうかと考えました。

ちっちゃな事しかできないけれど、
そのちっちゃな事でも良いから
できる事をしたいと思いました。

そして、僕はこれからも月に一度ぐらいでも
彼女に会おうと思いました。

それから、日系人の人達の事を知ってもらえるように
僕ら渡米日本人達が日系人の人達に
感謝の気持ちと尊敬の気持ちを持ってもらえるように、

それができなくても、

せめて、彼らの声に耳を傾けてくれるように

もう彼らは語ってくれないかもしれませんが、

せめてきちんと向き合ってもらえるように

歌を書いてみようと思いました。


すぐにはできないかもしれません。


でも、僕はそれをするべきだと思うんです。

リトル東京という僕を育んでくれた街を作った彼らを
歴史の中に消してしまわないように、

もう一度彼らが心を開いてくれる日を待つ準備を
僕らができるように

ほんの少しでも良いから何か力になりたいと思ったんです。


僕の歌なんてほんの数十人しか知りません。

でも、その数十人の先には
それぞれにさらに数十人が数百人がいるんです。


もし、僕が多くの人に愛される歌を書く事ができたら....。


その中で1人でも良いから日系人の人達に
心を向ける人が現れてくれたら....。

もし、日系人の人の心に響く歌が書く事ができたら....。



僕らが再び同じ和の国の人として、
微笑み会える日が来たとしたら...。



とりあえず、僕は僕ができる事をしてみたいと思います。


そして、もう1つできる事として、
文字にしてみようとも思いました。

それが、この文章です。

これはこの街で10年間を過ごした1日本人の見識と意見です。


事実はもっと広範囲で色々な側面があります。

これが全てではありません。

僕の解釈と感情も入っています。

ですから、これが真実ではありません。

でも、色んな事実を含んでいます。

けれど、それは全体の一部でしかありません。


だから、この文章だけに完全に依存はしないで下さい。


だけど、知っておいて欲しいんです。


日系人の人達が歩いてきた道を。

彼らの心の傷を。



歴史の教科書って江戸時代の事は教えるのに
なぜ戦争などの近代史は深く扱わないのでしょうか?


今の日本が抱える問題の多くは
この時期に生まれたものなのではないでしょうか?


僕らは未来を見つめる為にも
過去を知る必要があるのではないでしょうか?


歴史に葬られた彼らは今も生きています。


彼らは失望の今を生きています。


彼らに光をあてる事はできなくても、
せめて彼らの事を知ってもらえたらと思います。


海を渡った先輩達の事を忘れないでいて下さい。

僕達、日本人が世界から信頼されているのは
1人1人の努力と忍耐があってのものなんだと
忘れないでいて下さい。

そして、僕達は彼らの後輩なんだという事を忘れないでいて下さい。

いつか、みんなで笑顔で手をつなぎあえたら...


そんな事を思うLAからの便りでした。

人気ブログランキングへ
よろしかったら応援クリックをおねがいします。


ブログパーツ 

アクセスランキング
2010.08.06

Vitello's Restaurantでジャズな一夜

LAは今日も快晴です

こんにちは、のんぎぃーです。

一昨日は僕のジャズの先生の演奏を見に行ってきました。
LANY程ではないにしても
色んなところでJazzの生演奏をみる事ができます。

世界のトップクラスのミュージシャンの演奏が
レストランで気軽に見られたりするのは
とても魅力的な事だと思います。

しかもLAなんて気楽な街ですからね、
そんなオシャレなレストランでも
ジーンズにスニーカーで入れちゃったりするんです。

なんてお気楽な街なんでしょうね♪

僕はもともと出不精なので
あんまり頻繁にライブを見に行ったりしないんですけど
それでも友人に誘われて見に行ったりしています。
(誘ってくれる友人達に感謝!)

Gonzalo Rubalcabaのピアノ演奏なんて
それはもうエキサイトで恐ろしくなる程でしたし、

 ゴンサロ・ルバルカバ / Paseo


Paul Jackson Jr.のリズムワークなんて
とてもシャープで繊細でした。
(LAのトップクラスのスタジオミュージシャンで、
 マイケルジャクソンのアルバムでもギターを弾いています。)

 
ポール・ジャクソンJr. / ネヴァー・アローン


そんなワールドクラスのミュージシャンの演奏が
目の前で見れる街のLA

ジャズメン達の中には、若い頃はNYでバリバリに活躍していて
一線を退いた今は気候が良いLA
のんびりと音楽活動をしている人達もいます。

一昨日に見に行ったライブは、
そんなジャズメンの1人が毎週ホストを努める
ジャズギターのライブでした。

彼の名はJohn Pisano(ジョン・ピサノ)。
よくJoe Passと一緒に演奏していたジャズ・ギタリストです。

今ではすっかりおじいちゃんですけど、
とても気さくで感じのイイ人です。

 ジョー・パス / Joe Pass & Co.

このアルバムでも共演しています。
一番右の人がJohn Pisanoさんです。


実は僕、彼のオリジナルのソロギターの曲を聴いて
ジャズをやろうと思ったんです。

 
ジャズ・ギタリスト紳士録〜
インターナショナル・ソロ・ギャラリー〜


それはこのアルバムの中の「amanhecer」 という曲です。
アマンヒーサーと表記されていますけど、
本人はアマニェセールと言っていました。 
ボサノバ調の曲なので、
多分ポルトガル語読みが正しいと思います。
ポルトガル語で「夜明け」という意味です。
John Pisanoさんはボサノバが好きらしくて
ジャズのスタンダードも
ボサノバのスタイルでよく演奏するんです。

初めてあったのは今から8年ぐらい前だったと思いますけど、
その時の驚きは今でも忘れられません。

「まさか、自分がジャズをやろうと思った
 きっかけの人に会えるなんて!!!」

こういう事ってあるんですね〜。

そして、その数年後に
僕はジャズギターを習い始めるんですけど、
その先生が時々とはいえ、
John Pisanoさんと一緒に演奏をしているなんて!!

こんな偶然....あるんですね!?

初めてそのライブを見に行った時に
(かれこれ5年ぐらい前でしょうか?)
先生は僕の事を生徒だって
John Pisanoさんに紹介してくれましたけど、
まぁ、そんな事は覚えている訳も無く、
僕もそんな事は気にもせずに
帰り際に握手して軽く挨拶してきました。(^^


 哀愁のアランフェス

実は、ウチの先生はこのアルバムで
John Pisanoさんと共演しています。

しかも「amanhecer」も演奏しています。
(タイトルはサンライズになっていますけど...。)

John Pisanoさんがスタジオで
「この曲はJoe Passとも演奏した曲だから
 君とも一緒に演奏したいんだ♪」
と言って、ぶっつけ本番で録音したそうです。

もともとは企画もののアルバムだったので
先生自身はこのアルバムをあんまり気に入ってませんし、
ちょっと前の演奏スタイルなので
今のスタイルのようなダイナミックさに欠けていますけど
僕は好きなアルバムです。


そう、ミュージシャンは
常に新しい課題に取り組み続けているんですね。
プロでさえも、ベテランでさえもそうなんですね。

John Pisanoさんは今でも技術の向上に余念がないそうです。

大ベテランでさえ、向上心を持って毎日練習しているんですから
僕もサボってるわけにはいかないなぁと
あらためて考えさせられた夜でした。

ちなみに、こちらのレストランでの演奏でした。
 ーー>Vitello's Italian Restaurant


演奏スペースはレストランの一番奥にあるんですけど
演奏を聴きたい人だけが来るエリアなので
食事をする人の会話やナイフやフォークの音も気にならなくて
雰囲気良く演奏が聴けるお店でした。

また行く機会があるでしょうから、
今度は友達でも誘ってみようかな?


今日はLAのジャズ模様をお届けしました〜♪


人気ブログランキングへ
よろしかったら応援クリックをおねがいします。



TAB譜にさよなら!」随時更新中です♪

万屋のんぎぃー堂」今日ものんきに営業中です♪

ブログパーツ 

アクセスランキング
スポンサーリンク
FX
日本レコード大賞
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。